積もり積もった雪の下の車を救い出すのが大変なように

反省を怠って、つもりつもった心の垢を綺麗にするのは大変でした。

他の人はどうか知りませんが

自分の場合、妖怪性を払拭するには反省が一番なんだなあと気づきました。

自分のなかにある妖怪性に先まず気づくこと

これはもう、反省でしか気づけないじゃないかなと思いました。

それに

そもそも、汚れた心で祈ったところで、神さまには到底届かないんだよ

と思ったのです。

ある日

とあるプロの宗教家がこんなことを教えてくれました。

「私は色んな人に言われていたことがあったのだけれど

その本質に気づいたのは反省したからでした。反省して腑に落ちたのです

それまで、言葉では分かっているつもりであっても分かっていなかった。」

と、隠すことなく教えてくださったのです。


なるほどなあと思いました。

プロの宗教家でも、反省なくして真実の気づきが得られなかったのですね。


やがて

ある日、大好きな大川先生がこんなことを教えてくださった映像を観ました。

「妖怪には八正道が出来ない」

おお!なんと、私の本質を見透かしたようなお言葉でありましょう!!

そういえば

日光で「八正道」を受けたときは反省が出来なくて困りました。

しかも、初級コースなのに全然出来なかった。

全然反省が進まなくて、困り果てていたときに

当時の館長さんが、研修の途中で「今日は天気が良いので○○ですね」

と、仰って、研修生を滝を観に連れてってくださったのです。

研修の途中で、外に出て、思いっきり美味しい空気を吸いながら

滝まで歩く事が楽しくて、るんるん気分になっちゃいました。

滝の見物がから帰ってきて、再び反省すると、自分でも驚いたくらい

反省が進みました。

この違いは一体何なんだろう?

そう、思ったぐらい不思議な体験でした。

それまで、頭で反省していたんですね。

それが、滝の見物をしたことで・・・

というか、見物そのものより

歩く事でなにかのスイッチが入っちゃった感じで

心で反省出来るようになったのです。

もちろん他力のお力も沢山頂いた事でしょう

その沢山のお力を頂けるような心境になれたのも、あの滝見物が大きかったのです。

あれから何年も過ぎ

いまでも研修の途中で滝の見物をするのかな?と思っていたら

今では、そういうものがないと知り、とても残念に思いました。

八正道は、ますます私にとっては敷居の高いものになってしまいました。

でも、そんな未熟な私でも反省が出来るように大川先生は

様々な反省系の研修を用意してくださっていたのでした。

そのひとつが「秘伝・三途の川瞑想研修」でした。

大川先生がかつて、どこかの御法話でこのように仰いました

「反省に一番入りやすい方法は自分が死んだ時の状況を想定してみると良い」

と、その様に教えてくださった御法話があったのです。

そういう意味でも「秘伝・三途の川瞑想研修」は、

妖怪性がなかなか抜けない初心者の自分にはぴったりだなと思いました。

さらには、研修の途中で美しい湖の周りを歩けるのですから

まるで、自分のために用意された研修みたいで嬉しくなってしまいました。


実はこの研修受ける前には様々な出来事が頻繁に起きました。

あるときは応援してくれてるような出来事だったり

またあるときは、妨害とも思えるような出来事だったり

様々なハプニングがあったのです。

ここでひとつ学んだことがあります。

それは、目の前に現れる現象に素直な心で対処すること

これがとっても大切なんだなあ♪

と、あとになって気づきました。

この時、変な自我意識があると、大切なチャンスを逃がしてしまう

自分はお金がないから・・・とか

時間がないから出来ない・・・とか

そういった否定的ネガティブなおもいが

幸福の女神の後ろ髪から手がすり抜けちゃう事になるんじゃないかなと思います。

そして、反省して一番驚きなのが

自分の心が変わること♪

自分の心が変わると、周りの人々の心も変わっているんです

これは本当に驚きでした。まるで別世界にきたみたい。

これは、神の教えが現実になった瞬間なのでしょう

八正道の研修の時も驚きのサプライズが現実世界でありましたが、

「秘伝・三途の川瞑想研修」ではもっとすごい事が起きました。

これを、ミラクルとか奇跡とかいうのかもしれません。

反省とは自分をいじめることでもなく、後悔することでもなく

天上界にいたときの綺麗な心にかえることですから

反省後は悦びに満たされるんですよね

さっぱりとした風呂上がりの気持ちスペシャル!!

そんな感じです。







とあるロケ地で

ふたりのフォトグラファーの会話を耳にしました。

その二人の会話を聴くとはなしに聞いていると

どうも、仙人に誤解されてることを気にされているようでした。

そこで、せっかくの良い機会なので、仙人について考えてみました。

仙人というのを辞書で引くと、山に籠もるとか、人里離れたとか

その様なキーワードが出てきました。

しかし、宗教家がお籠もりしてても仙人とは呼ばれないわけです。

お籠り中は他との交わりを避けて

沈思黙考、誰とも話さず

課題に対して、全身全霊で思考されてる姿は

第三者から見たら一見、

仙人さんと変わらないように外見的には見えるはずです。

しかし、心の中が全然違うんですね

そのお籠もりは、やがて来る多くの人たちのために

与えようという気持ちが根底に溢れている為に

志がまるで違うのです。

私が尊敬してやまない大川先生のお話では

「仙人はこだわる傾向が強い」

と仰ってました。

確かにこだわりのブログなどを見ると、カメラの型番やレンズの種類の違いにこだわっていらして

それを当たり前のように表記されてるブログなどを見ることがあります。

ただ、私が思うにはどんなカメラで撮ったかより

絞りや、シャッタースピード、ISO感度、焦点距離などを明記していただいた方が

他の方の参考にもなって良いんじゃないかなと思いますが

こだわる人は、こういった毎回変化するデータは好きでないのかもしれませんね。

大切なのは

写し取った被写体から何を感じたかが大切なんじゃないかなと思うんです。

撮る前に何を感じ、それをどうとらえたか

自然ならば、神があらわされた自然の風景をどのような気持ちで受け取ったか

撮ったのではなく、撮らせていただいた事をどれだけ感謝しているかで

大きく作風が違ってくるように思います。


私の尊敬する写真家、市ノ瀬先生は

「カメラなんか、何だって良いんだよ!」と言い切ってました。

確かに、市ノ瀬先生の撮られたカレンダーや写真集の本を見れば

その風景の荘厳さに見とれて、その写真の世界に心が入り込み

どんなカメラやレンズで撮ったかなんて、全く気にならない美しさに圧倒されてしまいます。


最近はスマホで写真を撮られる方が多いですけど

とある花火大会の会場では、普通の人とそうでない人の違いがハッキリと現れていました。

妖怪の傾向性のある人は周りの人にかまわず、迷惑かけても平気で

スマホを高く掲げて撮っていらっしゃる。

必要もないのにLEDを光らせて、周りが眩しくて困っているのも気がつかない

一方、普通の常識のある方は周りの迷惑になるのを避け

スマホの画面の輝度をさげ、画面を暗くして控えめに撮影されてるんです。

この違いは大きいなあと思いました。

さらに、天狗になると撮った写真の自慢をするようになります

どうだ俺の技術がすごいいから綺麗に撮れたんだ、私の写し方が上手だからこれが撮れたのよ

などと、自慢されてますが

本当は、スマホのカメラの性能が良いからじゃないでしょうか

そして、何よりも花火師さんが美しい花火を上げてくださったからこそ

綺麗な写真が撮れたんじゃないでしょうか。

そのように思います。


そして、さらに

フォトグラファーの会話でもう一つ気になるワードがありました。

それは、家族と一緒に行こうとすると嫌がれる

というものでした。

なんで、嫌がられるのだろう?

それについて、ず〜〜と考えても

良い答えが見つからなかったので

自分が嫌いな事は何だろう?という視点で考えてみました。

すると、待たされるのが嫌だな〜ということに気づきました。

待たされるのが嫌だなと気づいたので、それについて反省してみました。

すると、私は家族にすごく迷惑をかけていたことに気づきました。

それも、幼い頃からです。

ご飯の時間、食卓に着くのが遅すぎて味噌汁が冷めてしまったこと。

家族は、皆が揃うのを待っていたので、全員の味噌汁が冷めてしまっていたのでした。

何度も繰り返してしまいました。

本当に恥ずかしい行為でした。

味噌汁は冷めると美味しくない。家族に迷惑をかけっぱなしでした。


社会人になってからも、残業で遅くなって、家族が夕食を食べずに待っている

そんなことが何度もありました。

お腹がすいているでしょうに、その待つ時間は大変なことだったろうと思います。

「先に食べてて良いよ」と、言ってはいましたが

その都度準備したりかたづけたりするのが大変なのにも気づかなかった自分

効率よく仕事して早めに切り上げる努力を怠ってしまった自分

自分一人のせいで、家族の時間を沢山奪ってしまった自分を発見しました。

時は金なりといいますが

お金に換算したら、どれだけ相手に損害を与えたことでしょう

ああ、本当に恥ずかしい

人を待たせるということは、相手の富を奪っているのと同じ事なんだな

と、気づきました。


私は二人のフォトグラファーの後ろ姿から、とても大切なことを教えていただいたように思います。

フォトグラファーさん、大切なことを教えていただき本当にありがとうございました。







あの世に還っても、

懐には、

孫たちの書いてくれた手紙とかも

入っているのです。不思議なものです。

手紙自体は棺桶と共に焼けたはずなのに、

その手紙が懐に入っていて、

取り出して読める状態になっている。


  善川三郎の霊言







亡くなったあと、地上の方々が悲しんでいるのは、よく伝わってくるものでしょうか

という質問に対し

泣く必要はないと思うんだけどね。

君たちが考えているように、

あの世に行くのはごく自然なことで、

サナギがチョウになるような移行なんでね。

普通、サナギがチョウになって、泣くかね?

(あの世では)

外国の人と会っていると、

日本で会っていたような気がするのに、

いつの間にか外国に場所が移っている

ような感じに見えることもあって

「空間移動」っていうのかなあ。

それが、すごく不思議な感じで移動するんで。


葬式は大事だね。

自分の写真を飾られたり、

まあ、泣いてくれる方もいらしゃるけど、

そういうところに人がいて、

「ああ、やっぱり、死んだのかなあ」っていう実感が、

多少、してくるから。

教会とか神社仏閣等で、神様っていうかさ、仏様っていうかさ、

そういうもっと上の人が、

いざというときには救ってくださる態勢があるっていうことは、

すごく安心感があるので。

「家族だけで供養するってうのは厳しいなあ」

っていうのは、やっぱり、感じるねえ。

だから、宗教はもっと大事にしたほうがいいよ。

この国は少し宗教心が薄くなりすぎてるから、

全部お金で考えるようになってきてるけど、

「宗教に使うお金は全くの無駄だ」とか、

「詐欺だ」とかいう論調を言ってるところは、

やっぱり、"まともでない"と思うねえ。うん。

道徳的な意味でも、魂を認めて、あの世があると信じたほうが、

やっぱり、人間は幸福なんじゃないかなあ。


いや、あの世へくるとねえ、いことあるよ。

「税金がない」んだ。

税金を取られない。ほんとうにありがたいねえ。

収入もないけど、税金もない(笑)

いやあ、実に愉快である。”無税国家”は、もう完成してるわ。


(本について)

「あの本はどうだったかな」とか思うと、

いちおう出てくる。空中にね。

読もうとすれば読めるし。

あるいは、テレビを観るかのように、その本の内容を、

ザーッと映像でも観るかのように

「ああ、こんな感じの内容だったかな」

っていうのが分かるような感じ

そんなような経験をしている。

大川先生の本なんかは、いちおう、

こっちにも図書館はあるんだけどさあ、

ズラッと並んでるよ、ほとんどな。

だけど、君たちの編集部がさあ、

間違って直したところなんかは、

全部、訂正されている。

君たちが手を加えた四次元波動のやつは削られて、

”元に戻ってる”からちゃんと。


こちらの世界の面白さは、

「五百年前の人、千年前の人、二千年前の人とでも会える」

っていうことだね。


俗に、「天国は常夏の世界」と言うけど、

「常春」だなあ。僕の感じは。



 書籍「渡辺昇一・死後の世界を語る」『渡辺昇一「天国での知的生活」と「自助論」を語る』より









(死んでから)二、三ヶ月ぐらいは、

あの世へ行ったり、この世に来たりするのを、

けっこう、許される・・

生活はねえ、(孫悟空みたいに)

色んな所を見て回ってるんだよ。

あの世には時計がない。

時計はないんだけど、なんか、時間の約束はできるんだよ。

それが不思議なんだけどなあ。

それと、やっぱり、空間の概念が、全然違う。

やっぱり飛べるんだよなあ。

(空を飛んで)移動できるのが不思議だよなあ。

あと、あの世には、

この世にいないような生き物もだいぶいるので、

そのへんが面白いかな。

それと、ものの間を通過できるところ・・・


霊界にも書物はあって、

この世でなくなった昔のものまである


唯物論は絶対に捨てたほうがいいですよ。

あの世の世界は、大川総裁が説かれた通りでした。

早く多くの日本人に、そして、

地上に生きるすべての人たちに、

『現代の仏陀』の説く真理に気づいてほしい。

それが私の願いです。



 書籍「小説家・景山民夫が見たアナザーワールド」









あなたとは何かと言えば、

あなたが考えていることが、あなた自身なのです。


  書籍「悟りに到る道」より










 目の前に立ちはだかり、

自分の道をふさぐように思われる事物や環境や人は、

あくまでも自らの弱気が映しだしている映像にしかすぎない。

ほんとうに自分の使命を知り、

そして力漲ったときに、

世の中には協力者以外の存在はいなくなるのです。

協力者でない者が続々と現れてくるということは、

心の中に否定という名の映像を映したいと

思っているということなのです。

そうであるならば、肯定しかないではありませんか。

「強く打ち出せ、自分の姿勢を。

強く肯定せよ、自分の将来の夢を。

私はできるぞと宣言せよ」


  書籍「光ある時を生きよ」より










 実際のところ、

死ぬ前の一ヶ月や、そのあたりは

肉体的には、そう楽なものではないのは事実ですけれども、

それは、ちょうど、青虫が蛹になり、

脱皮して蝶になるような感じでした。

(死んで)まだしばらく、一日ぐらいは、

いわゆる霊視線が肉体と魂とを結んでいるので、

魂は、肉体に近いところで、上空から

関係者の生活を見たりしているような感じでした。

だから、葬式に来ている面々の顔や、着ているものや

話している内容等は、よく分かりました。

「心の中で、何を考えているか」ということも

何か、ガラス箱のなかを覗いているような感じで、よく見えました。

死んでしばらくは痛みが残るのですけれども、

「だいたい、丸一日、二十四時間たつころに、霊視線は切れる」

そのころには、その病気の最後の症状の部分は

もう、非常に薄らいできています。

死んであの世に還りますと、非常に軽いですね。

まさしく、軽やかな感じです。

思った所に飛んでいけるというのも、いいことでしたね。

もちろん、死後まもなくの方は、まだ霊界の法則には慣れておりませんから、

導きの天使というか、指導霊が来て、手を差し伸べ、

いろいろなことをガイドしてくれます。

やはり、「生前に宗教を知っていた」ということ

「正しい宗教を信じていた」ということは

すごく大きな値打ちがあるということだなあ



  書籍「善川三郎の霊言」より





あなた自身が幸福になることが、

全人類を幸福にすることと一致する限り、

希望は必ず実現する


  書籍「青春に贈る」より






みなさんも、明日、命があると思わず、

今日ある命、今日ある時間を有効に使ってください。

「明日しよう」と思わないでください。

今日やれることは今日やるのです。

人生は真剣勝負です。

私はそう思って生きています。

みなさんにも真剣勝負で

日々を生きていただきたいと思います。


 
  書籍「朝の来ない夜はない」






あなたがたが生み出す”果実”が、

憎しみを乗り越えて、

世界に愛の花を咲かせるものであるならば、

それを教えている根本である”木”は、

世界を救うために生えている”木”です。

その木の名を「エル・カンターレ」といいます。


  書籍「智慧の法」より






教団にとってよいと思うこと、

あるいは、本来の伝道の使命、ミッションから見て、

「これは自分がやらずして誰がやるのか」

と思うようなことがあったならば、

怒られても、叩かれても、批判されても、悪口を言われても、

行うべきです。

「自己顕示欲だ」「独走だ」「人のいうことをきかない」

「三宝帰依に違反する」などと言われても、

行うべきなのです。

打たれても、打たれても頭をもたげてくるような

「復元力」を持ってほしいのです。

 総裁である私がそういう人間であったのですから、

信者のみなさんがそうであっても、別におかしくはないわけです。

そういう人は、実際に”問題児”ではあるのでしょう。

しかし、”問題児”であることを自覚しつつも

「”問題児”がいないよりは、自分がいることによって、

全体としては確実によくなっている」

というような結果を出すことが大事なのです。


  書籍「ストロングマインド」より







宗教には人間を根本的に変える力があります。

もちろん、病気を治す力もありますが、

人間そのものを変える力が宗教にはあります。

どうか最後まで希望は捨てないでください。

どんな苦境にあっても、必ず、立ち直れるチャンスはあります。

すべてに道はあります。

一つのドアが閉まっても、別のドアが開きます。

信仰は、本当は、すべてを解決する力を持っています。

ただ、あなたがたにも努力を要請します。

信じることの大切さを決して、忘れないでください。

どんなに苦しくても、朝の来ない夜はないのです。

たとえ、病院に入院していて、夜中に目が覚めて、涙を一人で流すときにも

「主はあなたと共にある」

ということを、どうか忘れないでください。



  書籍「朝の来ない夜はない」より






信仰とは、

この光が、大宇宙の根本仏である

仏陀を通して、地上を照らしていると

信ずることである



 書籍「永遠の仏陀」より









 政治というものは、

この世の「政」(まつりごと)ですが、

本来は、やはり、

「天上界の意思を受け、神に代わりて、この世を治める」

ということです。

本来、神々が会議をする代わりに、

国会で議員たちが会議をしているわけであり、

議員たちは神の代理人でなければいけないはずです。

神や仏の心を体現した人たちが、

「この国をどうすべきか」ということを話し合い、

方向付けをするのが、本当の政治だと思います。


書籍「政治と宗教の大統合」より



カテゴリ
< 2025年04月 >
S M T W T F S
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
インフォメーション
長野県・信州ブログコミュニティサイトナガブロ
ログイン

ホームページ制作 長野市 松本市-Web8

読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 2人
プロフィール
カッペリーニホープ
カッペリーニホープ
長野県出身 
日光の瞑想センターで反省したら、
周りの景色が素晴らしく見え
それ以来写真を撮るようになりました。
オーナーへメッセージ
過去記事