「じゃ、ぼくも愛なの?・・・」

「とうぜんだよ。自分自身のこと、指し示してごらん」

「よくわかんない、アミ」

「“ぼく”と自分のことを言うとき、自分の体のどの部分を指さして言っている?“自分”と言って指さしてごらん」

自然に胸の中心を指さして“ぼく”と言っているのに気がついた。

「どうして、たとえば、お腹や喉やひたいを、ささないのかな?」

胸以外のところをさしているのを想像したら、とてもこっけいに感じた。

「自分でも、どうして胸を指さしたかわからないや」

「なぜならね、そこに、本当の君がいるんだよ。」



「アミ 小さな宇宙人」エンリケ・バリオス著より





ローマ法王が以下のことをお話しされたそうです

「無神論者も、善行を行うならば、

カソリック教徒と同程度に善人である」

「あなたが何を信じようと、あるいは信じなくとも、

主はキリストの血によって、我々すべてをお救いになった。

カトリック信者のみならず、すべての人を。無神論者さえも」



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http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=6093


非常にこれは難しく微妙な発言だなと思いました。

最初の言葉は

「善行を行うならば、善人である」

で宜しいんじゃないでしょうか

なぜなら神仏を信じてるからこそ正しさがわかり

善行を行うことが出来ると思うからです。



2番目の言葉

これは

「神仏はあなたが信じようと信じまいと

あなたのそば近くまできていつも見守っておられます」

これが本当ではないでしょうか

いつもそば近くで見守っておられるけれども

本人が救いの手を差し伸べなければいけないんじゃないでしょうか

そして、信じてるからこそ手を差し伸べることが出来ると思います。


イエスキリストは生前、異教徒に対しても奇跡を起こしました

その時に必ず言った言葉は

「汝、神を信じるや。汝が信じるが如く汝となれ」

この言葉の示す通り

まず、信じるということが大切なのではないでしょうか


信じても信じなくても救われるというのは

一見、親鸞の「悪人こそ救われる」に似ています。

しかし、決定的に違うのは仏や神を信じているかどうかです

無神論に対する教えではなく信じる心を持っている人への教えだったのです。

仏や神を信じるからこそ、何が正しくて何が間違っているのかがわかるのです。

「悪人こそ救われる」の本当の意味は

仏や神の教えに照らして自分自身の生き方を振り返ったときに

私は罪人であったと自覚して反省したときに救いがくるということです

なぜなら、地獄に堕ちた人で「私が悪かった」と言う人は

1人もいないからです。

無神論者は「私は悪くない」といいます。そして感謝もしません。

よその国の島を自分の国の島だとウソを言ったり

外国から来た企業や人を壊したり傷つけたり平気でします。

仏や神を信じている人はそういう犯罪行為はしません

たとえ、間違ってしたとしても、良心が痛み途中で止めるのです


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プロフィール
カッペリーニホープ
カッペリーニホープ
長野県出身 
日光の瞑想センターで反省したら、
周りの景色が素晴らしく見え
それ以来写真を撮るようになりました。
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