「友情」

「思いやり」

「幸福」

「温かさ」





今回の反省で気づいたのは

自分の心が歪んでいると、相手の姿も歪んで見えるということです

立ち向かう人の心は鏡なりという言葉もありますが

こちらの心が相手に写っているのだなあということに気づきました。

周りが全部悪人に見えるほどの心境の人は、そう見える人が悪人なのですね

ケチな心で見たならば、相手の人もケチに見え

豊かな心で見たならば、相手も豊かな人に見える


あと、これは何気に凄いなと思ったのが

あの世の風景

人は夢を見るとき、移動をともなった夢とか、場面が急に変わる夢は

霊界の夢を見ているといわれていますが

朝起きると夢で見たことはぼんやりとしか覚えていないし

時が経つにつれて急速に記憶がなくなっていくものですが

三途の川瞑想研修で見た景色は、時が経っても思い出せるし

まるで、体験した記憶のように鮮明なところが凄いなと思いました。

更にもっとすごいなと思ったのは

世界中で報告されている臨死体験の中で、神をみたという報告が多くされてますが

例えばキリスト教を信じている人はイエス・キリストとあの世で会ったというものです。

何がいいたいかといいますと

自分の場合エル・カンターレが大好きで、いつもお逢いしたいと思っていたんですが

なんと!まさか!!三途の川でエル・カンターレにお逢い出来るとは・・・

聴くところによれば、他にも沢山逢っていらっしゃるとのことです。

いや〜本当に驚きでした。

自分の場合デッカいデッカい大きな腕しか見えませんでしたが

研修中ずっと福徳増進祈願の御光と同じものを感じておりました。

あの祈願の御光がずっと続くのですから、もう、とけちゃうかと思っちゃいました。

本当にそば近くで見守ってくださっているという感覚が、実感としてあり

涙が止まらなくなりました。

神は死んではいない

神は眠ってはいない

神は隠れてはいない

現在ただいま、この世にもあの世にも存在する

マルチバースをも統治する御存在

それが始原の神の本質なんだと思いました。

とはいっても、鱗一枚、鱗の細胞ひとつを見ての感想にすぎないかもしれませんが

私にはどうしても隠れているという表現は嫌なのです。

だって、隠れるなんて卑怯なことされるわけないもん

宇宙に責任を持たれてる存在だもの

目に見えないから存在しない、そんなのナンセンス

愛は目に見えなくても確かに ある ように

愛の神の存在は

愛のあるところに神があり、神あるところに愛がある

真理は常に簡単なところにあるものなんだなあ、と

その様に思います。











秘伝・三途の川瞑想研修は予期せぬ収穫がありました。

反省がもの凄く進むんです

予期せぬというのは人間心の考えで

本来は、もともと用意されたものなのでしょうね


ある方は、自分の命は惜しいと思ってなくて、いつ死んでもイイと思われていたのに

自分が死んだとき両親がどれほど悲しみに沈まれるか、実感されて

生きよう!と心に決めたそうです。


ある方は幼くして亡くなった子供に会えた人がいらして

それまで、その子供が気がかりで自分を責めていたのに

三途の川で出逢った実の子供から逆に癒やしと生きる希望を与えられ

まるで、生まれ変わった人もいました。


一方自分の方はどうかといえば

ホントにお役に立てなくてどうしようもなくて死ぬ予定だったのに

生きる希望が沸々と湧いてきて、これまでの人生無駄じゃなかったんだ

そう確信して、一歩前進したら、つぎつぎと不思議なことが周りで起き出して

本当にビックリしています。


心の問題として、関東のとあるフォトグラファーに関しては

それまでは、自分があれだけしてやったのに、全然お返しがない

鉄道にしても、飛行機にしても、美しい夜景にしても、色んな施設、公園があったり

私の尊敬してやまないお方の数々のゆかりの地、沢山の精舎

本当にもう撮るのに時間がなくて困るほど豊富な被写体があるのに

地方には一切チャンスを与えてくれない!!と嫉妬もしていました。

全くケチな人間だなと思っていたのですが

ケチなのは自分の方だと気づいたのです

そもそも住んでいる信州の大自然は神が創造されたもので

自分がつくったものではない。自分のものなど何もない。

それを、ちょっと案内した程度の役割

それに、もともとの出会いはTさんのお友達だった方で

Tさんから「あとよろしく」とか言われて、渋々引き受けたのがきっかけで

Tさんは心が透明な方で、御自身の出世よりも他人の出世を考えていらした方なので

自分もその志に共感して引き受けたのが始まりでした。

Tさんから紹介されたフォトグラファーには秘密の場所を全てお伝え出来ました。

出し惜しみはしていなかったのが幸いしたのか達成感が得られました。

心が奪う方向に向いていると苦しみになりますが

見返りを求めず与えきりにの気持ちになったとき、悦びになったのです。

どんな環境でも、例え精舎のひとつもない県に生きていたとしても

与える側で生きようと決意したとき、それまで予期していなかった

数々の不思議な出会いや、チャンスが次々と舞い込んできたのです。

奪う愛に生きていたときは、だれも助けてくれないと思っていたのですが

与えようと思ったときには、本当に驚きで助けてくださる方が

次から次へと現れて、驚きの連続でした。

心の向きを変えただけなのに、こんなにも周りがちがって見えるなんて凄すぎる

と思いました。

まるで、生まれ変わったようです。



秘伝・三途の川瞑想研修の瞑想中にお逢いした

地蔵菩薩の厳しくも温かいお言葉に溢れる涙が止まらなくなりました。

美しい菜の花のある壮大な土地が目の前に開けていました。

その菜の花が咲き乱れる地を飛び回って

その後、体が上昇したかと思うと、

美しいアヤメ色の田沢湖が見えてきました。

湖の周りを一周しました。

上空から眺める田沢湖はえもいわれぬ美しさでした。

遠くに海が見えてきました。

さらに上昇すると、仏の右手が見えてきました。

ああ、この壮大にも見える菜の花畑も

仏の手のひらの上で守られている世界なんだなと気づきました。

その時、柏手が2回鳴り響き

気がつくと元の研修場にいました。







この三途の川瞑想研修、とっても面白いことに

このお話しすると、聞いた人の反応が両極端なんですよね

積極派とそうでない派にハッキリと分かれていて中間がいない感じです。

積極派の人は、いついつに行く予定!など、すでに受けることを予定している人

そうでない派の人は、受けない理由をもっともらしく言い訳するんです。

お金が勿体ないからとか、5月の研修に向けて頑張ってるときだからとか

自分ではない家族が受けましたとか、受けた人の体験話が良い話ばかりだから・・いやとか

まるで、もっともらしい言い訳をして自分自信に納得させているように思います。

例えば5月の研修を言い訳にしていた人は

5月が過ぎてみると、今度は7月のお祭りがあるので・・・と言って

7月が過ぎると、今度は、音楽祭があるので・・・と、言い訳されてました。

イケイケ系で本部からも評判良い方ですが、反省が苦手なんですね

反省からの発展をしないと、途中で道をそれていることに気づかず

大変なことになるかもしれない。

あるところでは、みんなを連れて研修に行ったまでは良かったものの

連れて行った本人だけ研修受けないで帰ってきたという人もいました。

「なぜ、あなただけ受けなかったんですか?」と聞いたら、上手な言い訳をされてましたけど

結局、最後の発表の時、かっこ悪い発表をしたくなかったんじゃないかなと思います。

やっぱり、プロの宗教家ならば自分のカッコ悪いとこさらして、後進の者の参考にしてもらわなきゃ

って思います。

お金のことを気にしている人は、

お金がないからこそ、この研修受けて豊かさを取り戻そうと思わなきゃ

って思います。

例えば、3年計画ぐらいで毎月いくら貯金するか決めて実行していけば

必ず3年以内、もっと早い時期に受けられる

心配な交通費だって、協力者が現れるかもしれない

本気で願う人には目に見えない力が働くものですけど

もっともらしく言い訳する人には永遠に助ける人が現れない。

と思います。

さて、

こんなことを書いてる自分はどうかといったら

この研修受けるの嫌でした。

なぜかって、見えてくる世界が自分が死んだあと行く世界とすれば

地獄なんて見たくないし、未知なるものは怖い

という気持ちが強かったのです。

それに、とんでもなく遠い場所に行かなければならないし

時間もお金も勿体ないなあ、なんて思ってたんです。

でも、研修受けたあとの気持ちは、この研修受けて本当に良かったなと思いました。

勇気を出して受けて良かった。

近年は次々と、元気だった尊敬する人があの若さで突然あの世に旅立って

自分だっていつ死ぬか分からない。

そうであるならばこそ、生きてるうちにあの世をロケして

死んでから迷わないようにしなければならないと本気で思いました。

本気を出したら、あれよあれよと予期せぬ事が起きて受ける道が整ってきたのです。

研修費が一泊二日と二泊三日、どちらにしようか迷いましたが

どちらも同じ値段だと聞いて驚きました。

実際、研修受けてみたら、さらに驚きでした。

だって、最初の二日で大満足状態でしたから。

良い意味でこれで帰ってもいい♪と思ったぐらい充実して

精舎側がまったく、出し惜しみしてないのが素晴らしかったです。

最初に研修生全員でお祈りをするのですが

この祈りの経文が、まるで詩編のように美しい言葉で

気がつくと涙が頬を伝わってきてしまいました。

おもえば、ここから神秘が始まっていたように思います。

それから、精舎のスタッフ全員が素晴らしい方ばかりで

気配りが最高なんです

まるで、東北のリッツカールトン?かと思ったほどの神対応ぶりに、

それだけでも幸せな気持ちになりました。

というわけで、最初から研修の話を書くと、それだけで日記がいっぱいになっちゃうので

バッサリとはしょって本番の話をします。

二日目の午後から一泊二日コースの人と合流しますが

岐阜のBさんは、いつも名古屋で祈願している祈願と同じ祈願を東北でもされるほどの熱心な人で

そんな方と同じ研修受けられて、とてもラッキーでした。

Aさんは御法話の後の瞑想の時から不思議な体験をされてました。

この御法話がスゴい!! 私も生まれて初めて拝聴させていただき「目から鱗」状態でした。

そして、いよいよ三途の川を見る時間がやってきました

見るというより、見えてくるですね(^^)


狭いトンネルを、もの凄い勢いで抜けると

広大な草原でした。

季節感はよくわかりませんでしたが

暑くもなく、寒くもなく丁度良い気温でした。

目の前には大きくて美しい川が流れていました。

対岸までの距離が、丁度、田沢湖と同じぐらいの距離感のある

かなり大きな川でした。

川上には立派な船がとまっていました。

川下には白と金色と朱色が混じった大きな橋が架けられていました。

「これが三途の川なんだ♪」

そう、思って一歩踏み出したら、次の瞬間対岸に到着してました。

えっ?

不思議に思ったので、神さまにお祈りしました。

「どうか神さま本当のことを見せてください。たとえ酷くても受け止めますから」

そう、お祈りしたら、いつのまにか元の位置に戻っていました。

そしてもう一度、一歩を進めると、今度はズブズブと体が川に沈みました。

水深はは2mぐらいあったように思います。

表面の5センチから10センチぐらいは濁りが薄かったものの

川の水は汚くて水の中では何も見えませんでした。

もの凄い水圧なのか、流れがすごいのか、なかなか前に進みませんでした。

地獄も見えてきました。

はじめ、真っ暗な世界で何も見えませんでした。

諦めずに再チャレンジすると暗闇の中でも、徐々に目が慣れてきて、何か見えてきました

最初に見えてきたのは、闘争と破壊の世界?

映画「ロード・オブ・ザ・リング」に登場するような悪者が騒いでいました

その鬼のような獣のような人が武器も持って襲って来た時

あっと思った次の瞬間、グイッと何かが上空に引き上げてくれて助かりました。

目には見えないけれど何者かが助けてくださったのです。

その他にも、人間の顔をした豚のような動物が歩いてる世界や

小高い丘が連なるような場所で

鋭いナイフやカミソリの歯、包丁の歯みたいのが

刃先が上に向いて地面に植えられている場所にも行きました。

その時は上空から見ている感じでしたので、

このまま落ちたら八つ裂きになるのは確実でした。

ガキ地獄では痩せた人のような生物が

しきりに何か取ろうとしているとこを見ました。

ところが、取ったモノを自分のモノにしようとすると、

ポッとすぐに消えてしまいます。

そんな場面を見させていただきました。


さて、やっとの思いで対岸にたどり着いたとき

救いにきてくださっていた地蔵菩薩は

硬く険しい岩の上にいて、なかなか近づく事ができませんでした。

いくら呼んでも、何も答えてくださらないのです

今にして想えば、救いに来てくださったのだから、

救ってくれて当たり前。みたいな慢心の思いが自分の心にあったのだと思います。

なかなかお返事がいただけなくて、険しい岩を登りはじめたとき

目の前に突如として現れました。

そのお姿はまるで地獄和尚そのものでした。

ああ、そういうことか・・・

私は覚悟を決め、

どんな事でも仰っていただいて構いませんから…

教えて下さい。と、頼みました。

すると、地蔵菩薩からは

とても人様に話せないような厳しい事を次々と言われました。

こちらがすでに忘れていることまで厳しく言われました。

そして、さらにこのように告げられました。

お前は主が何処にいるか分かっていないのか

いつもお前のそばにいて見守られていた事に気付かなかったのか?

誰に助けられたと思っている?



私は、涙が止まらなくなりました


















その2につづく





精舎から頂いた研修の心構えについてを観たとき

正直、驚きました。

「研修はリラックスしてお臨みください」と書かれていたからです

てっきり気合いを入れてお臨みくださいかと思っていたので

リラックス出来るんだと分かって、なんだかとても嬉しい気持ちになりました。

そして、事前準備として反省系の御法話を拝聴し

思いつくところから反省していきました。

その中のひとつに

以前、友人から依頼があって、

友人の子供達のためにパソコンを教えたことがあるんです。

別にパソコンに詳しくはなかったけれど、

子供相手ならば大丈夫かなと思って引き受けたんですが

なぜか、こどもには喜んでもらえたようで、

いろいろな面白い使い方を教えて、さて、これで帰ろうかと思ったときに

ちょっと待って下さい。と言われ

「これ、家内からの気持ちだから受け取ってください」と言って

小型のお手紙のような封筒をいただきました。

見ただけでは何なのかわからなくて、そのお気持ちを受け取ったんですけど

帰ってきて開けてみると

その封筒の中には新札のお金が、

まるで折り紙を折るようにして綺麗に畳んで入っていたんです。

それを見て涙が出そうになりました。

相手の方の感謝の気持ちが伝わってきたんです。

それからなんどかパソコンの使い方を伝えるために訪問させていただく度に、

外からは何かわからないようにして

渡してくださいました。

凄く感動した出来事でした。

真心ってこういうことなんだなあと思いました。

あれ以来、自分も人に感謝の気持ちを差し出すときには

必ず新しい封筒で、新しい用紙やお札でお礼させていただくようにしています。

そして、

三途の川瞑想研修を受けるために

別の精舎で「両親の反省」をさせていただいたり

思いつくところは端から実践させていただきました

すると、だんだん心が落ち着いてきて

研修を受ける気持ちが固まってきたのでした。

固まるというより、覚悟が出来てきたという感じです。







積もり積もった雪の下の車を救い出すのが大変なように

反省を怠って、つもりつもった心の垢を綺麗にするのは大変でした。

他の人はどうか知りませんが

自分の場合、妖怪性を払拭するには反省が一番なんだなあと気づきました。

自分のなかにある妖怪性に先まず気づくこと

これはもう、反省でしか気づけないじゃないかなと思いました。

それに

そもそも、汚れた心で祈ったところで、神さまには到底届かないんだよ

と思ったのです。

ある日

とあるプロの宗教家がこんなことを教えてくれました。

「私は色んな人に言われていたことがあったのだけれど

その本質に気づいたのは反省したからでした。反省して腑に落ちたのです

それまで、言葉では分かっているつもりであっても分かっていなかった。」

と、隠すことなく教えてくださったのです。


なるほどなあと思いました。

プロの宗教家でも、反省なくして真実の気づきが得られなかったのですね。


やがて

ある日、大好きな大川先生がこんなことを教えてくださった映像を観ました。

「妖怪には八正道が出来ない」

おお!なんと、私の本質を見透かしたようなお言葉でありましょう!!

そういえば

日光で「八正道」を受けたときは反省が出来なくて困りました。

しかも、初級コースなのに全然出来なかった。

全然反省が進まなくて、困り果てていたときに

当時の館長さんが、研修の途中で「今日は天気が良いので○○ですね」

と、仰って、研修生を滝を観に連れてってくださったのです。

研修の途中で、外に出て、思いっきり美味しい空気を吸いながら

滝まで歩く事が楽しくて、るんるん気分になっちゃいました。

滝の見物がから帰ってきて、再び反省すると、自分でも驚いたくらい

反省が進みました。

この違いは一体何なんだろう?

そう、思ったぐらい不思議な体験でした。

それまで、頭で反省していたんですね。

それが、滝の見物をしたことで・・・

というか、見物そのものより

歩く事でなにかのスイッチが入っちゃった感じで

心で反省出来るようになったのです。

もちろん他力のお力も沢山頂いた事でしょう

その沢山のお力を頂けるような心境になれたのも、あの滝見物が大きかったのです。

あれから何年も過ぎ

いまでも研修の途中で滝の見物をするのかな?と思っていたら

今では、そういうものがないと知り、とても残念に思いました。

八正道は、ますます私にとっては敷居の高いものになってしまいました。

でも、そんな未熟な私でも反省が出来るように大川先生は

様々な反省系の研修を用意してくださっていたのでした。

そのひとつが「秘伝・三途の川瞑想研修」でした。

大川先生がかつて、どこかの御法話でこのように仰いました

「反省に一番入りやすい方法は自分が死んだ時の状況を想定してみると良い」

と、その様に教えてくださった御法話があったのです。

そういう意味でも「秘伝・三途の川瞑想研修」は、

妖怪性がなかなか抜けない初心者の自分にはぴったりだなと思いました。

さらには、研修の途中で美しい湖の周りを歩けるのですから

まるで、自分のために用意された研修みたいで嬉しくなってしまいました。


実はこの研修受ける前には様々な出来事が頻繁に起きました。

あるときは応援してくれてるような出来事だったり

またあるときは、妨害とも思えるような出来事だったり

様々なハプニングがあったのです。

ここでひとつ学んだことがあります。

それは、目の前に現れる現象に素直な心で対処すること

これがとっても大切なんだなあ♪

と、あとになって気づきました。

この時、変な自我意識があると、大切なチャンスを逃がしてしまう

自分はお金がないから・・・とか

時間がないから出来ない・・・とか

そういった否定的ネガティブなおもいが

幸福の女神の後ろ髪から手がすり抜けちゃう事になるんじゃないかなと思います。

そして、反省して一番驚きなのが

自分の心が変わること♪

自分の心が変わると、周りの人々の心も変わっているんです

これは本当に驚きでした。まるで別世界にきたみたい。

これは、神の教えが現実になった瞬間なのでしょう

八正道の研修の時も驚きのサプライズが現実世界でありましたが、

「秘伝・三途の川瞑想研修」ではもっとすごい事が起きました。

これを、ミラクルとか奇跡とかいうのかもしれません。

反省とは自分をいじめることでもなく、後悔することでもなく

天上界にいたときの綺麗な心にかえることですから

反省後は悦びに満たされるんですよね

さっぱりとした風呂上がりの気持ちスペシャル!!

そんな感じです。







とあるロケ地で

ふたりのフォトグラファーの会話を耳にしました。

その二人の会話を聴くとはなしに聞いていると

どうも、仙人に誤解されてることを気にされているようでした。

そこで、せっかくの良い機会なので、仙人について考えてみました。

仙人というのを辞書で引くと、山に籠もるとか、人里離れたとか

その様なキーワードが出てきました。

しかし、宗教家がお籠もりしてても仙人とは呼ばれないわけです。

お籠り中は他との交わりを避けて

沈思黙考、誰とも話さず

課題に対して、全身全霊で思考されてる姿は

第三者から見たら一見、

仙人さんと変わらないように外見的には見えるはずです。

しかし、心の中が全然違うんですね

そのお籠もりは、やがて来る多くの人たちのために

与えようという気持ちが根底に溢れている為に

志がまるで違うのです。

私が尊敬してやまない大川先生のお話では

「仙人はこだわる傾向が強い」

と仰ってました。

確かにこだわりのブログなどを見ると、カメラの型番やレンズの種類の違いにこだわっていらして

それを当たり前のように表記されてるブログなどを見ることがあります。

ただ、私が思うにはどんなカメラで撮ったかより

絞りや、シャッタースピード、ISO感度、焦点距離などを明記していただいた方が

他の方の参考にもなって良いんじゃないかなと思いますが

こだわる人は、こういった毎回変化するデータは好きでないのかもしれませんね。

大切なのは

写し取った被写体から何を感じたかが大切なんじゃないかなと思うんです。

撮る前に何を感じ、それをどうとらえたか

自然ならば、神があらわされた自然の風景をどのような気持ちで受け取ったか

撮ったのではなく、撮らせていただいた事をどれだけ感謝しているかで

大きく作風が違ってくるように思います。


私の尊敬する写真家、市ノ瀬先生は

「カメラなんか、何だって良いんだよ!」と言い切ってました。

確かに、市ノ瀬先生の撮られたカレンダーや写真集の本を見れば

その風景の荘厳さに見とれて、その写真の世界に心が入り込み

どんなカメラやレンズで撮ったかなんて、全く気にならない美しさに圧倒されてしまいます。


最近はスマホで写真を撮られる方が多いですけど

とある花火大会の会場では、普通の人とそうでない人の違いがハッキリと現れていました。

妖怪の傾向性のある人は周りの人にかまわず、迷惑かけても平気で

スマホを高く掲げて撮っていらっしゃる。

必要もないのにLEDを光らせて、周りが眩しくて困っているのも気がつかない

一方、普通の常識のある方は周りの迷惑になるのを避け

スマホの画面の輝度をさげ、画面を暗くして控えめに撮影されてるんです。

この違いは大きいなあと思いました。

さらに、天狗になると撮った写真の自慢をするようになります

どうだ俺の技術がすごいいから綺麗に撮れたんだ、私の写し方が上手だからこれが撮れたのよ

などと、自慢されてますが

本当は、スマホのカメラの性能が良いからじゃないでしょうか

そして、何よりも花火師さんが美しい花火を上げてくださったからこそ

綺麗な写真が撮れたんじゃないでしょうか。

そのように思います。


そして、さらに

フォトグラファーの会話でもう一つ気になるワードがありました。

それは、家族と一緒に行こうとすると嫌がれる

というものでした。

なんで、嫌がられるのだろう?

それについて、ず〜〜と考えても

良い答えが見つからなかったので

自分が嫌いな事は何だろう?という視点で考えてみました。

すると、待たされるのが嫌だな〜ということに気づきました。

待たされるのが嫌だなと気づいたので、それについて反省してみました。

すると、私は家族にすごく迷惑をかけていたことに気づきました。

それも、幼い頃からです。

ご飯の時間、食卓に着くのが遅すぎて味噌汁が冷めてしまったこと。

家族は、皆が揃うのを待っていたので、全員の味噌汁が冷めてしまっていたのでした。

何度も繰り返してしまいました。

本当に恥ずかしい行為でした。

味噌汁は冷めると美味しくない。家族に迷惑をかけっぱなしでした。


社会人になってからも、残業で遅くなって、家族が夕食を食べずに待っている

そんなことが何度もありました。

お腹がすいているでしょうに、その待つ時間は大変なことだったろうと思います。

「先に食べてて良いよ」と、言ってはいましたが

その都度準備したりかたづけたりするのが大変なのにも気づかなかった自分

効率よく仕事して早めに切り上げる努力を怠ってしまった自分

自分一人のせいで、家族の時間を沢山奪ってしまった自分を発見しました。

時は金なりといいますが

お金に換算したら、どれだけ相手に損害を与えたことでしょう

ああ、本当に恥ずかしい

人を待たせるということは、相手の富を奪っているのと同じ事なんだな

と、気づきました。


私は二人のフォトグラファーの後ろ姿から、とても大切なことを教えていただいたように思います。

フォトグラファーさん、大切なことを教えていただき本当にありがとうございました。






https://youtu.be/cJe3QkhP2ks?si=GxAWnnOiTqcYtI9m


今年の初詣は何処にしようかと悩んでいたところ

あっ、あそこだ!!とインスピレーションがありました。

昨年は本当に大変な年でした。

怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦 が強烈だった年でした。

その中でも良い事もあったものの、背負えないような苦しみと思えるものが

多かったように思います。

尊敬する知人の死にもショックを受けました。

特に驚いたのは岐阜のKさん

Kさんからは「愛のあとさき」の美しい詩篇を

教えていただいた。

未だ大手出版社から出る以前、何年も前の事

その内容の素晴らしさから

時代を下れば必ずや世に現れるものだと思いました。

今でも忘れられない思い出です。

そんな尊い事をされてる方が早死にされるなんて

これっぽっちも思っていなかった。

きっと、あの世も人手不足なのでしょう。

そんな悲しい事がいっぱいあった年でありました。

そんな時だからこそ、

尚更、人は信仰を大切にしなくちゃいけないんだと

思いました。

日本の神の最高神は天御祖神

その発祥の地である富士山の近くの地にどうしても行きたくなりました。

天御祖神は太陽のような御存在

世界で一番元旦の早い日本の地で昇る太陽を拝めたら

人生最高の幸せだと思ったのです。

元旦の日に山の頂上に登っている人は、せいぜい10人ぐらいかなと

思っていたのですが

実際に昇ってみて驚いたことに、何百人もの人が頂上にいたのです。

もしかしたら千人超えていたかもしれません。

山の頂上から下界を見渡せば、素晴らしく美しい世界

山の登り口には駐車場もあって、殆どいっぱいになっていました。

回峰行といって、歩いて巡る人たちも昨年と比べ2倍を超える人数で

関係者も驚いていました。

天御祖神を知る人はどのくらいいるか分かりませんが

この地にこんなにも沢山集まったのも偶然ではないように思います。

実際、太平洋から太陽が昇る瞬間を見つめてみると

青から赤に変化する大空の

その、壮大な美しさに感動して、うるうるきてしまいました。

ああ、こんなにも素晴らしい新春特別初日の出コースがあったなんて

いままで、なんで誰も教えてくれなかったのだろう

なんて、思っていたら。

ハッと気づくものがありました。

誰も教えてくれなかったと、人のせいにしてしまう想い

これこそが妖怪の思いなんだなと思いました。

実際、素晴らしいかどうかは別として

新春初日の出コースがあることを20年も前から知識として知っていながら

いつも寝正月していたのは人のせいではなく自分の怠け心

素晴らしいかどうかを確かめることすらしなかった

ずくなし人間でした。

たまたま同じ宿泊所に泊まっていた神奈川県のWさんは

20年間毎年参加していると教えていただき

自分の怠け心が恥ずかしくなりました。

そのWさんからは年越しそばがあることを教えていただき

それがまた、無料なのにめちゃ美味しくて新鮮な驚きがありました。

美味しいのを食べると何故か幸せな気持ちになります。

そして、なによりも、山の頂からみる絶景の世界

これはもう後には戻れなくなりました。

命ある限り続けようと思いました。












私が尊敬してやまない大川隆法先生の「平静心」セミナーで

先生が以下の様に説かれていました。


私自身の幸福感覚が強かったときの事を考えてみますと、
夕暮れ時に散歩をしながら
季節の移り変わりを観て歩いているときに、
とてつもなく自分が幸福ものであることを感じたことが
何度も何度もありました。

秋の夕暮れ時に感じたこともあるし、
また一月、雪が積もっている中で
寒梅がみごとな花を、
赤い花を雪の中で咲かせているのを観たときに得た
感激もありました。

そうしたときに、
なんともいえない幸福感というものを味わったことがあります。
この幸福感は代えがたいものです。
これは小恍惚感ともいいます。

そうして、不思議なことに、こうした恍惚感、
幸福感というものを得た人が、
何故かそれから後に他の人々の為に生きようと
思うことが多いという事実があるのです。
これは歴史的にそうであるのです。

何故かそうした至福の時を持った人は、
多くの人々のために生きたいという気持ちが
強くなるのです。
おそらくは、その瞬間に大宇宙と一体になって、
幸福感覚が、
自分が大いなるものから愛されているという気持ちが
体いっぱいに満ちたために、
その幸せな感覚を他の人々にも分け与えたいと
思うようになるのだと私は解釈しています。

真に幸福になったことのある人間は、
その感覚を少しでも多くの人にお裾分けしたくなる。
そういうふうになるものだと感じるのです。

ゆえに私は皆様方に特殊なことをお願いしようとは思いません。
この心を湖面の如く、ないだ鏡のような姿にしてほしい。
そして、それを保つことが、
よろこびであるということを知ってほしい。






失敗を恐れると

お役所対応になる

お役所対応になると、人の心が離れていく

お客は完璧な対応を求めているのではない

心がホッコリする対応を求めているのだ


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プロフィール
カッペリーニホープ
カッペリーニホープ
長野県出身 
日光の瞑想センターで反省したら、
周りの景色が素晴らしく見え
それ以来写真を撮るようになりました。
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